令和元年の最後に書かなければならないブログを思い出した

雑記帳〈Notebook〉

ブログを書くのいつ振りだろうか・・・。

なんか、急に書きたくなったので書きます。

 

でも、通常ならSNSで拡散したりもしていたけれど、このブログは自己満足ブログであり、思い出として残しておきたいブログなのでSNSに投稿はしません。

ただし、家族にはいつか読んでもらいたいブログかな。

 

低くても越えてはいけない壁

決して今まで不自由をしていたわけではないが、事あることに立ち塞がった壁が僕にはあったのだ。周りから見るとそんなに高い壁ではないのだが、僕からすると越えたらいけない壁であった。

この年齢になっても逆らうことが出来ない。反発はしたけど逆らったことはない。
唯一僕が出来たことが距離を置くことだったかもしれない。

距離をおいても、遠距離砲が飛んできたけどね(笑)

やっぱり僕には越えられないなぁ〜。

 

攻撃はしてこないが口撃がハンパない

今まで怒られた時でも、拳が飛んできたことはない。
最大の武器だったのが『口撃力』である。

時には脅迫に近い口撃や、高等技術を駆使した理論的口撃や、間髪入れないマシンガン口撃だったりもした。

勝てませんよ。敵いませんよ。1枚以上も上手ですよ。

今まで反論すらしたこともない。だからこんな性格になったのかもしれない。

 

義理人情のためなら嫌われられる

僕は人から嫌われることは出来ない性格である。嫌われたくないのである。
でも人間関係を構築する上では、嫌われる勇気も必要なんだと最近思うことがある。

恩義を受けたら必ずお返しを忘れない。良かれと思ってお返しも倍返しだったかもしれない。

けど、義理人情も周りの人全員に与えるのは無理でしょう。人からはえこひいきをしているように見られるかもしれないが、そこはきっちりと線引きをしなければならない。

後ろ指を刺されようが、陰口を叩かれようが、筋の通った生き方であれば良いんじゃないかな。

 

壁が倒壊し、口撃も無くなり、義理人情を受けられない

その低かった壁が無くなってしまった。口も開くことはもう無い。
そして、ウザすぎた愛情も今後受けることは無くなってしまった。

2019年(令和元年)6月5日に父との早すぎる別れとなってしまった。

急だったよな〜。

 

僕は後悔をしています。もっと話をしておきたかったと思ってます。もっともっと僕にアドバイスをして欲しかったと思ってます。そして、もっともっともっと一緒にお酒が飲みたかったと思ってます。

それはもう無理。無理なんです・・・。

 

僕の父って・・・規格外な男?(幼少期編)

僕の出生

1981年(昭和56年)9月に僕は生まれたのですが、両親の入籍日はその年に5月だった。「結婚して4ヶ月で生まれた俺って、もしかしてデキ婚の子?」と大人になってから思いました。

 

初めての家

家なんて寝床があれば十分だったみたいで、家族3人は父の実家の1室に居候暮らしでした。記憶はかすかにあるが、祖父母と父母と父の妹と大量の猫たちの中で僕は育ちました。

 

初めて買ってもらったゲーム

1983年にはファミリーコンピューターがこの世に発売された年でもありました。
近所の子達もファミコンを買ってもらい、共通の遊びはファミコン一色でした。

僕も近所の友達とファミコンがしたくて父にお願いをしたらしいです。

きっと可愛がられていた僕のお願いを承諾してくれて、買ってきたゲーム機が・・・

ファミコンじゃなかった。セガマークⅢだった!!

父は「テレビゲームなんだから同じだろ!!」と言いました。ファミコンを知らなかったみたいです(笑)

 

その後はファミコンを買ってきてくれたし、当時あまり持っていなかったディスクシステムまで一緒に買ってきてくれました。
近所では人気者になれましたよ。

 

家族旅行

裕福な家庭ではなかったが家族で旅行にも行ったりはした。

でも行き先は親戚の家ばかり。

ホテルに泊まることはなく、親戚の家に泊めてもらう家族旅行。
父が親戚のお宅に手土産を持って会いに行き、ご馳走をしてもらう家族旅行。

確かに色々と連れて行ってもらいましたが、子供としては退屈な家族旅行ばかりでした。

けど今となっては、その親戚付き合いが僕の宝物になってます。

 

引っ越し

大好きな祖父母の家から引っ越す時がきた。

4歳にして初めて家族3人での生活がやってくることになった。

引っ越しの理由は、僕が幼稚園に通い始めるためだったみたいです。

引っ越しをして数年後に取り壊されることになるオンボロな長屋が新居だった。水しか出ない台所、電話もない、風呂もない、トイレは汲み取り式。でも、家族3人で暮らせる家が嬉しかった。

実はその長屋の近くには母の実家があって、「風呂はお前(母)の実家で入ればよい」とも言っていたみたいです。

 

僕のおねだり

今大人になって僕が子供から言われたら困っちゃうな〜。

当時5歳の僕は父と母にこんなおねだりをしました。

「兄弟が欲しい!!」

簡単に買えるものでもないし、無茶なことを言ってましたね僕。

 

僕が難産で産まれたから、きっと予定はなかったはずなんです。

 

今だから思う。父の男気を!!

 

6歳年の離れた妹が昭和62年に誕生しました。
ありがとう。父ちゃん、母ちゃん。

 

父と2人暮らし

妹の誕生により父との2人暮らし生活がちょっとだけ経験をしています。

これは妹も母も知らないのですが・・・

毎日外食!!

料理はできる父でしたが、極度の面倒臭がりだったので外食ばかり。寿司屋、ラーメン屋、居酒屋、レストランでのお子様ランチ。「この世にこんなに美味しいものが存在するんだ」と感じた6歳の頃の思い出。

だからきっと、外食好きになったんですね(笑)

 

スポーツとの出会い

父と母はスポーツが大好きで、当時父は朝野球をしていたし、母はバレーボールをしていました。運動神経がそこそこ良いのは両親譲りなのかもしれません。

父は我が子にもスポーツをさせたがっていたみたいです。

しかし、当時僕は好きなスポーツを習わせてもらったことはない!!

アイスホッケーがしたかったのにスピードスケート部にぶち込まれ、Jリーグブームもあってサッカー部に入りたかったのに野球部に強制的にぶち込まれました。

この頃から父が絶対的な存在になっていたのかもしれません。
(返事は『はい』or『YES』)

 

監視する父

学校の行事なども積極的に参加していた父。なので周りの友達も僕の父の顔を知っていた。

「コウジのお父さん、今日もいるよ」

えっ??なんで??仕事は??

 

そうなんです。父はいつも僕を監視していたのです。

野球やスピードスケートの練習はもちろん、遊んでいても父の目線が気になってました。

しかも遊びでフザケていると監視員が飛んでくるのです。

「ふざけて遊ぶなら家に帰れ!!」

こんな父親は存在しますか?

 

自分に甘い父

父は幼少期からサボり癖があると祖母から聞いたことがあります。

当時サラリーマンだった父はこんなことをしていた。
・朝は二日酔いのため休むか遅刻をすることが多かった。
・昼休みは自宅で3時間(昼寝2時間)
・17時の定時上がりで子供のスポーツの指導に当たる。
・夏は接待ゴルフと自分が監督でもある朝野球。

「この人はなんの仕事をしているのだろう??」って幼少期は思ってました。

なぜクビにならなかったのでしょう・・・。

 

幼少期からのその後

今日だけでは書ききれなかったので、ちょいちょ追記をしていきます。
(一体、何文字書けば良いのだろう・・・)

やっぱり嫌いになれなかった父

僕の発言はほぼ否定される。やりたいことはやらせてもらえない。僕には自由がなかったと思っていた。

何度も親子の縁を切りたいと思ったし、殺してやろうとも思った。けど出来なかった。

 

父は幾つになっても僕のことを心配してくれたし、叱ってくれた。

それは全て愛情だったんです。

 

父の生き様が良いのか悪いのかはわからないが、最近僕も父に似てきた気がする。

やっぱり憎くても親子なんだな〜。

 

きっといつか、そちらの世界に会いに行きます。

 

 

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